坂東流について

坂東流の芸風とその魅力 – 杉 昌郎(舞踊作家)

日本舞踊における古典作品は、とりもなおさず歌舞伎舞踊です。

その意味で、流祖三世三津五郎に始まり、歴代の家元が歌舞伎俳優である坂東流は、単に踊るだけのそれではなく、作品を、常に演劇的にとらえ、“演じる”ことを大切に扱うところに特徴があります。

実はそのことは、日本舞踊である限り、どの流派にも云えることなのですが、特に坂東流にその要素が顕著であるには理由があります。

幕末の江戸には、“女狂言師”とよばれ、歌舞伎舞踊を中心に、芸を演じることを職業とする女性芸人たちの活躍がありました。

当時、自由に芝居見物が許されなかった大名の奥方や姫君のために、男子禁制の大奥にあがって、その時々に評判の歌舞伎舞踊をお目にかけるとを本業とする女芸人たちが女狂言師たちでした。

当然のことながら、人気の高い役者の演じた作品や芸風が好まれるわけですから、女狂言師たちは、そうした役者の一門に属して芸を磨き、やがて名前を許されると、坂東三津江、水木歌仙、岩井粂次などと、役者名を冠した芸名をもって独立し、それぞれに稽古所を構え、お屋敷へ上る以外の日々には、いわゆる町師匠として、町家の娘さんたちに稽古をつけていたわけです。

実は、それが、現在、日本舞踊と称ばれているものの始まりなのですが、当時、江戸で実力者とされた女狂言師には、三世三津五郎の門にある人が圧倒的に多かったのです。

つまり、役者そこのけに演ってのける実力の持ち主が多くいたわけです。

そして、それら実力者たちは、それぞれの稽古所を拠点に、一国一城の主として日常の活動を展開していたのです。

明治を迎えるまでの舞踊界では、どちらかというと、組織化された流儀を単位とする認識よりも、師匠個々の実力が社会一般の評価、あるいは認識の対象であったようです。

明治いらい、社会全体が近代化するにともなって、日本舞踊の世界では、家元を中心とする流派の組織化がさかんに行なわれるようになりましたが、坂東流では、独立独歩の実力者が多かったという、ある意味では頼もしい実状から“家元”という括りではなく、流祖いらいの“旦那”という、より古風で格調の高い括りで、それぞれが個性的な舞踊活動を行なっていたようです。

古来歌舞伎の世界では、座元系の家柄の当主を“旦那”と称び、それ以外は、たとえ團十郎であっても菊五郎であっても“親方”でした。三津五郎家は守田座の系譜ですから、その当主は“旦那”なのです。

そして明治も中期を過ぎ、世の中がいよいよ近代化する明治39年、六代目歿後、ひさしく絶えていた三津五郎の名跡が、七代目三津五郎という、これまた踊りを家の芸とするにふさわしい当主の出現をみたのですから、時代の要請ということもあって、旧幕時代いらい坂東の門にある人たちの多くが、七代目三津五郎のもとに集い、事実上七代目を“家元”とする近代坂東流としての歩みを始めたのです。そして組織されたのが、95年の足跡をもつ「坂東会」というわけです。

以上の事がらからも分かるように、歌舞伎の世界とは不可分の関係にある坂東流であり、しかも“旦那”に象徴される座元の家柄とあって、その芸風は折り目正しくいたずらに時流に流されないところが最大の魅力といえそうです。

遠く化政期の三世三津五郎に始まる、古い伝統に培われた坂東流は、新しい感性を備えた当代家元を得て、21世紀にふさわしい、伝統と創造の流派としてさらなる発展を遂げるでしょう。

坂東流 – 杉 昌郎(舞踊作家)

日本舞踊の流派には、歌舞伎の振付師を流祖とする流派と、舞踊に傑出した歌舞伎俳優を流祖とする家柄があり、その場合は役者名をそのまま家元名とする例が多いようです。

坂東流は、後者を代表する流派で、文化文政時代(1804~30)の頃、江戸歌舞伎きっての踊りの名手として、多くの名作を残した三世 坂東三津五郎に始まる流派です。

流祖 三世 三津五郎(1775~1831) 屋号 大和屋

この人は、初世三津五郎の実子で、安永4年生まれ。深川の永木というところに住んでいたので、通称永木の三津五郎とよばれ、天性のすぐれた容姿と端正な芸風から、名実ともに、化政期を代表する名優の一人でした。

ことに舞踊にすぐれ、同時代に上方から下ってきた実力者三世 中村歌右衛門(中村流流祖)を好敵手として、覇をきそった両優の活躍は、まさに江戸の芝居の華でした。

その三世 三津五郎が初演した作品には、いまも日本舞踊のレパートリーとして広く親しまれている「傀儡師」「玉兎」「汐汲」「まかしょ」「源太」「山帰り」「浅妻船」「申酉(お祭り)」など、枚挙いとまのないほどです。

天保2年(1831)歿、享年57才。

四世 三津五郎 (1802~1863)

三世の養子とて迎えられた人ですが、三世があまりにも傑出していたためか、当初の評判はかんばしくありませんでした

そこで一念発起して上方に下り、一から出直しの覚悟で修行を積んだ結果、大いに実力を身につけ、数年後には江戸に帰って四世三津五郎を襲名しました。

この人が残した舞踊では、四世歌右衛門のコンビによる「三社祭」が特に有名です。

そして晩年には、森田座の座元11世守田勘弥を継ぎ、火事を避ける意味で、森田座の森を守に替え、守田座としたのはこの人でした。

文久3年(1863)歿、享年61才。

七世 三津五郎 (1882~1961)

五世、六世の三津五郎は、幕末から明治初期にかけて、女形として活躍した人たちですが、踊りに関しては、なんといっても、明治39年4月の歌舞伎座で、坂東八十助改め坂東三津五郎を襲名した。いわゆる七代目 三津五郎の存在は巨きく、坂東流中興の祖といった意味からも特筆されます。

七世は、明治維新後の歌舞伎界にあって、革新的な興行師として名を馳せた。守田座の座元十二世守田勘弥の長男として、明治15年に生まれました。

明治30年、15才の時に父 守田勘弥を失った後は、父の残した借財の返済など、座元の家系ならではの苦労を味わったようですが、天性の芯の強さと温厚な性格から苦境によく耐え、後年には、芝居に舞踊に、常に正統的な表現を第一とする実力者として、高く評価される境地に至った人でした。

ことに、終世の名コンビだった六世尾上菊五郎との共作による「棒しばり」「身替座禅」はもとより、古典の「三社祭」など、両優の共演は昭和歌舞伎における舞踊の頂点を示すものでした。

また、七世独自の初演作品には「茶壺」「独楽売」「夕顔棚(初世市川猿翁との共演)」などがあります。

晩年には、長年の功績に対して、芸術院会員、重要無形文化財(人間国宝)の認定を受けました。

昭和36年(1961)歿、享年79才。

八世 三津五郎 (1906~1975)

同時代の俳優の中では、かなり革新的な感覚の人で、若年の頃から小山内薫、岸田劉生など各界の知識人や文化人との交流が広く、晩年には、すぐれたエッセイストとしての活躍は記憶に新しいところです。

一方、晩年の舞台では、スケールの巨きな役柄や皮肉な味わいの老け役に、独特の風格が見られました。

舞踊作品には、七世との共演による「寒山拾得」(一部に洋楽使用)、長唄「馬盗人」、義太夫「龍虎」などがあります。

昭和50年(1975)歿、享年68才。

九世 三津五郎 (1929~1999)

昭和4年、三世 坂東秀調(昭和11年歿)を父とて生まれましたが、6才で父と死別した後は、幼少の頃から六世菊五郎の薫陶をうけ、長じて二世尾上松緑のもとで研鑚を積みました。

昭和30年に、八世の長女 喜子と結婚。坂東八十助、坂東簑助を経て、昭和50年、八世の急逝にともなって九世家元を継承した。俳優名九世坂東三津五郎としての襲名披露は、昭和62年9月でした。

九世は、天成の誠実な性格をそのままに、微塵もごまかしのない明快な芸風に、さわやかな魅力がありました。

家元を相続後は、流祖三世三津五郎初演作品の復活をライフワークとし、自主公演「登舞の会」において、毎回その成果を発表しました。「武内宿彌、網打、申酉」(三段返し)、「願人坊主」「老女」「初雁の傾城」「俄鹿島踊」その他、長く埋もれていた作品の多くが再び世に出ました。

平成11年4月1日歿、享年69才。

十世 三津五郎(1956〜2015)

昭和31年1月23日誕生。

守田家では、ひさびさに内孫男子の誕生とあって、曽祖父七世の歓びは大きく、まだ1才と2ヶ月の十世は、曽祖父に抱かれて「傀儡師」の唐子役で出演しました。むろん、当人の意思とはまったく無関係ながら、結果的にそれが初御目見得というわけで、十世三津五郎の役者人生は、そこに始まったといえます。
昭和37年9月、祖父 八世の三津五郎襲名披露興行において、父 九世が坂東八十助から坂東簑助に、そして守田寿が五世 坂東八十助にと、三代そろって襲名は、当時、社会的にも話題になりました。

それが、十世にとっては正式の初舞台で、「鳥羽絵」の鼠と、披露演目「黎明鞍馬山」の牛若丸を演じました。それは満6才の時のことでした。
さらに時代は流れ、九世の歿後、平成13年(2001)の1月2月の2ヶ月、歌舞伎座で十世坂東三津五郎の襲名披露興行がおこなわれました。奇しくもそれは、新三津五郎の誕生にふさわしく、新世紀がスタートを切った正月の初春興行でありました。

十世のこれまでの年譜によると、芸術選奨文部大臣新人賞(昭和63年)、浅草芸能大賞奨励賞、都民文化栄誉章(いずれも平成4年)、真山青果賞(平成9年)、日本芸術院賞(平成18年)、松尾芸能賞大賞、紫綬褒章(平成21年)などがあります。また、追贈という形で、『旭日小綬章』を賜りました。

平成27年2月21日歿、享年59才。